真右エ門窯の耀変の美学 —「石」の理性と「炎」の奇跡
「清浄」と「いき」の哲学
1300度の高温の炎による焼成を経て「死と再生」を遂げた磁器や、その表面で人知を超えた爆発的な美しさを見せる「耀変」の世界。それは「地上の理性が結晶化した『石』の器を土台とし、その上に宿る炎の奇跡を、日本独自の洗錬された『いき(Iki)』で受け止める」という、二重構造によって成り立っています。
日本の美意識は、多くの場合「わびさび」という言葉で語られます。それは無常だからこそ美しいという意識として、日本文化の深層に根付いてきました。この先人たちが築き上げた精神文化に対し、私は常に深い敬意を抱いております。その上で、私たちが追及しているのは「清浄」「永遠性」そしてその奇跡を受け入れる「いき」という「もうひとつのわびさび」なのです。
もうひとつのわびさびとは 「石」の理性 — 清浄(Seijō)の根拠
無常の美との違い、それは「物質の運命」の違いにあります。
無常の美の精神を象徴するのは「土」であり、これは自然の儚さや移ろいやすさを表します。
一方、私たちが用いる「石」は、大地の結晶であり、水を弾き、堅牢で、永遠性を宿すものです。
この石は、1300度の炎による「死と再生」を経て、永久(とわ)に朽ちぬガラス質の存在へと昇華します。これが「常に清浄であること」の根拠となるのです。
この「清浄」への願いは、日本の神道や古代エジプト、メソポタミアの文化にも遡る、人類共通の祈りでもあります。人類は古来より「清潔さ」と「永遠性」を求めてきました。現代の磁器もまた、この「石」の性質を受け継いでいます。
特に食事とは、生命と感情を交わす神聖な儀式。その器が徹底して「清浄」であることは、個人の感情や尊厳を守るための土壌となるのです。
無常の美を持つ土器が自然の儚さを愛でるものであるならば、真右エ門窯の磁器は「永遠の清浄さ」を映す鏡なのです。
いき(Iki)— 奇跡を受け入れる洗練された心
私たちは「石の理性」―人類の歴史の中で清らかさを表す土台―の上に、炎の絵を描きます。
窯の中の炎が生み出す劇的な変化、それは人間の知恵を超えた領域で起こる「奇跡」であり、エネルギーが極限まで高まったときに見られる「美の誕生」の瞬間です。
ここで重要となるのが、その奇跡を受け入れる心、すなわち「いき」です。
この真右エ門窯における「いき」は、次の2つの段階を経て完成します。
1. 完璧な準備 ―作為の最高点
長年の経験と知識をもとに、土や釉薬の配合、窯の温度、炎の質を完璧にコントロールし、人として為すべき「作品の舞台」を極限まで整えます。
2. 炎の奇跡と「いき」の受け入れ
どれほど準備を尽くしても、最後は炎という自然の力に委ねるほかありません。炎は往々にして、作家の意図を超えた形で応えます。
「いき」とは、この自然の粋たる炎の奇跡を前にしたときに持つ、ある種の潔い心の態度です。
執着を手放すこと。思い通りにならぬことを不完全と嘆くのではなく、人知を超えた「自然の恩寵」として受け入れ、賞賛すること―このように、自然の持つ圧倒的な美たる炎の奇跡と、それを受け止める人間の成熟した精神、つまり人間の粋が出会う場所に、真右エ門窯の耀変は存在します。これは、自らの美意識に絶対的な自信を持つ者だけが許される、深淵なる精神の遊びと言えるでしょう。
「石」と「炎」という根源— 理性と混沌の融合
なぜ人は長い間、清浄さを求め、同時に炎の「奇跡」に心を奪われるのか。
その答えは、私たちの理性が芽生える遥か以前から、人類が抱き続けてきた「炎」への深い畏敬の念にあると考えます。
炎は、人類にとって二つの顔を持つ存在でした。
一つは、闇夜を照らす光、凍える体を温める熱、そして文明を生み出す創造の力。もう一つは、すべてを焼き尽くす破壊の象徴です。だからこそ、古代の人々は炎をコントロールすることを夢見、その力に神聖さを感じていたのでしょう。
私が時に「炎の哲学者」と名乗る所以も、そこにあります。
